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<<   作成日時 : 2017/12/08 13:20   >>

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先日ラジオで面白い話を聞いた。

「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」という番組なのだが、毎回武田鉄矢のお気に入りの本をネタにして、その本の内容の解説と、武田鉄矢による意見や経験談などが披露されるのだが、これが実に興味深い。


毎回学ぶことが多いのだが、ある回での武田鉄矢の話。

「人間を一冊の本に例えてみてはどうだろう。」

これは武田鉄矢自身の考えた事なのか、本の著者が言っている事なのか定かではないが、私はこの言葉に強く刺激された。

記憶があいまいなので、実際とは言葉がかなり違うと思うが、武田氏が騙っていたことの断片を書き出すと以下のようになる。

「我々をそれぞれ本と考えた場合、その本を書いた人がいて、それをSomething Greatとよんでもいいかもしれない。」

「本自身は自分に何が書かれているのは読むことができない、それを読むことができるのはその本を手にした他人だ。」

「本としての自分にどんなことが書かれているかは、その話を読んだ他人を見ることで知ることができる。」

「死ぬときに、自分という本にどんなことが書いてあったのかが分かるのかもしれない。」


これらの話を私なりに勝手に肉付けして、次のような解釈をしてみた。


人間あるいはその人生が「一冊の本」だとして、その物語を書き込んだのはSomething Greatだというわけだが、Something Greatは人によって、神でもいいし、宇宙の摂理でもいいし、因果応報でも、物理法則でもよいのだろう。

いずれにしても、人は自分に書き込まれた「物語」の通りに人生を送っているとして、その物語は人生の途中で書き換えられることもあるのだろうか。

おそらくそれはないのだろうと思う。

また、自分という物語を読む他者というのも、物語をすべて読みつくすわけではなくて、各人それぞれが物語の断片を読むだけで、断片をよんだ他者を通して、自分という物語の一部を本人が察することができるのだろう。

そして、自分の関わりのあった他者全員の読んだ断片をすべて集めても、自分という物語を完全に再生することは不可能なのだろう。

誰にも読まれなかった物語の断片が相当たくさん残っているのだろうから。

こうして我々は、自分に書き込まれた物語の全体像をしらずに人生を終わることになるのかもしれない。

そして、物語が何を意味していたかということは考える必要は無くて、物語はたたただ味わえばいいのだ。


自分という物語の最終章がいつどこでやってくるのか知らないが、最終章までは必ず生き続けるのだろうし、最終章の最後の一文が終われば、仮に物語が完結していないように見えても、そこで人生は終わるわけだ。


このように考えてみると、大切なことは自分に書かれた物語をどれだけ深く味わって慈しんで日々を暮らしていくかということのような気がする。

少し人生に対する見方が変わった気がする。

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